【Main Story 1-1】Singular Points -Beyond the Horizon-
- CorSoYuz

- 2月18日
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こちらの記事は Singular Points -Beyond the Horizon- のストーリーのテキスト版です。
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Singular Points -Beyond the Horizon-
二◯一七年九月七日
——信号受信中
——オーダービットエラーを検出
——配列の反転を実行します
[受信ログ001]いま帰ります
二〇一八年十月二十八日
地球を発ってからまだわずか三時間。シャトルのヘルメス号ごと、母なる大地を追放されたわたしは、この無骨な長距離宇宙探査船シンギュラリティ号の床を、すでに我が家のように踏み歩いていた。
「ふう……ずいぶん揺れるのね」わたしは心の声を漏らした。
「酔い止めが必要でしょうか!? メディカル棚の二段目にご用意がありますよ、船長……!」すかさず機械音声が大げさに応答する。この声のおかげで(いや、この声のせいで)これからわたしが経験する未知の冒険は、SF映画のように気持ちの華やぐものではなく、友人と談笑しているかのような、俗っぽい空気に包まれたまま進んでゆく——そんな気がした。
わたしが宇宙への船出をしている理由である、今まさに進行中の〈パンドラ計画〉は、それはそれは壮大なものだった。ブラックホールに飛び込み、時空の特異点——〝シンギュラリティ〟——を直接観測するという、物理学の禁忌に迫るこのプロジェクトにおいて、船の搭乗員にわたしは選ばれた。
ブラックホールなんて恐ろしい天体など〝近所〟にあるわけがないと皆思っていた。しかし事態が大きく変わったおよそ四年前——どういうわけか地球から八万天文単位(およそ十二兆キロメートル)の彼方、オールトの雲の中に突然〝それ〟は現れた。太陽の十五倍ほどの大きさと、三百五十万倍もの質量を持つそのカー・ブラックホールは〈ベルゲルミル〉と名付けられた。北欧神話において、血の洪水を箱舟に乗って逃れ、新たな始祖となった霧の巨人——その名を冠したその時空の裂け目は、現代物理学の最大の謎に解を与え、人類の次世代への進化をもたらすかもしれない。
しかし、そんな新たな世界へと導いてくれる存在は、その超大質量のせいで、太陽系をまるでモビールのように振り回しはじめてしまった。重力という波に飲まれ、人類は目下洪水に遭っているのだった。
当然こんな〝天文ショー〟——いや、〝天変地異〟という方がふさわしい——を黙って見ているわけにもいかないので、ベルゲルミルにはいずれ、元居た場所へと帰ってもらわねばならない。いきなり出現するなんてことが起こり得るのなら、消滅させることもきっと可能なはずだ、というのが科学者の総意だった。そのためには、人類の叡智を幾段階か飛躍させる必要があった。幸か不幸か、そのための最初のピースは〝そこ〟にある。科学者たちに、特異点のデータを取りに行かない考えはなかった。
そういう事情なのでパンドラ計画の目的はまあ、世界を救うとか、そんなところなのかな。けれども、大それた理由なんてわたしには関係ない。わたしはただ、胸に抱いたこの好奇心に従って、物理法則すら破綻させる〝大いなる星〟を、この目で見てみたいだけだった。
「船長! そろそろ甘いものでも補給なさいますか……?」
「甘いもの……そう言われたら欲しくなってきました。チョコレートもここでは貴重品ですけどね」
「さすがに船長の嗜好のためだけに、ショコラティエを連れては来れませんでしたから……!」
この船で人間はわたしだけなのに、隙あらば劇場のように会話劇が繰り広げられるのは、同乗しているもう一人のクルー、この〝人工知能ロボット〟が、やたら感情的に話すようプログラムされているからだった。その名に反して元気いっぱいな彼女の名は〈ジゼル〉。なるほど、〝死の世界〟でわたしをサポートするにはぴったりの名前ね。
ジゼルは直径二メートル、厚み五十センチメートルの円板型で、中心が正五角形にくり抜かれた金属のボディをしている。前面には五角形の一つの辺に沿うように、ピペロル文字で大きく〈ジゼル〉と刻印されてあり、その反対側には二枚のモニターが埋め込まれている。
そんな体型なのに船の中を自由に移動する様子は、最初は不思議に思えたけれど、それは角運動量保存の法則——いわゆる〝ジャイロ効果〟——をうまく利用した、力学の法則に則った運動だという。加えて、転倒したり起き上がったりする際には、ジェット噴射によって飛び上がる能力も備えていた。
「大変ですよ! 船長!!」ジゼルが叫ぶ。
「どうしましたか?」
「はい! 船長のお好きな〈ヘリオ・ショコラ〉を、出発前に購入するのをお忘れのようです……」
「ふふ、大丈夫ですよ。頂いたものを備品と一緒に、保管庫にしまってますから」
「ああ、よかったです……! あれがないと、船長は気を確かに持てませんのでね……」
ジゼルにそう呼ばれているとおり、わたしは唯一の人間として、シンギュラリティ号の船長を務めていた。しかしそうとはいいつつも、操縦はすべて、船のコンピュータに接続しているジゼルの仕事だった。わたしの役目は細かい作業補助と、そして〝意識〟を船に持ち込むことだった。人間が持つ意思と本能は、未知と向き合う上では重要なものだと考えられた。
わたしも一応の船長として、船のあれこれや旅の行程は頭に入れていた。
全長百十二メートルにもなる巨大なチーズケーキの形をしたシンギュラリティ号は、長距離航行に特化した最新鋭の宇宙船だった。上面には、シャトルやランダーをドッキングするための接続ポートが設けられている。また船の前後に挟まれるように中間部には、直径同じく百十二メートルのリングモジュールが嵌め込まれている。その円周上に等間隔で並んだ八つの部屋は、遠心力による人工重力——わたしが今ここに座っていられる理由でもある——が発生する居住スペースとなっている。各部屋はパイプで連ねられ、わたしもジゼルも苦なく移動することができた。
シンギュラリティ号はまた、最高水準の加速性能を有し、その巨体にはありったけの燃料が詰め込まれている。そのため地球からベルゲルミルまで、最短経路でまっすぐ向かうことができる。
今回の旅程は、まず最初の六万天文単位を、加速による船内の重力を地球と同じ1Gに保つように一定の推力で航行し、その後エンジンを止めて、残りの二万天文単位を慣性で走り抜ける、というものだった。
この航路ではベルゲルミルまでの所要時間は、地球の時計で七百三十六日、船内の時計で五百二十九日となる計算だった。時間がずれているのは、いわゆる〝相対性理論〟の効果が現れるせいで、わたしが宇宙旅行をしているあいだには、地球ではもっと多くの時間が流れる、というのがこの世界のきまりごとだった。
船が加速しているあいだ——船内時計で最初の四百六十三日間——は、資源を節約するために、わたしは人工冬眠をすることになっていた。そのあいだ重力は船の推進方向と反対向き、つまり真後ろの方向へ発生し、あの大きな窓のある壁面は〝床〟となる。加速をやめたあとは再びリングモジュールが回転し、今と同じように床面に床の役割が戻ってくる。以上が今回の定められた行程だった。
ベルゲルミルに到着したその後のことは、事細やかには決められていなかった。ブラックホール周辺の時空の分析、降着円盤の観測、量子情報理論の検証など、やるべきことはたくさんあるけれど、最も重要なミッション——光すら抜け出せない〝事象の地平面〟の内側へと侵入し、玉手箱に隠された特異点のデータを取得して地球へ持ち帰ること——だけは遂行しなければならなかった。ホライズンの向こうから帰還するプランすら、誰も立てることはできていないのに。
とはいえこのパンドラ計画は、生きて帰れるかどうかすらわからない危険なギャンブルではない、とのことだった。事前に送られた無人探査機からは、単純なものではあるけれど安全を意味するシグナルが、継続して地球へ送信されていることがその根拠だった。
それにこんな大掛かりな計画が、見切り発車で実行されるはずはないと、楽観的に考えてもいいのかもしれない。機関で最も優秀と称される、容姿がわたしによく似た若い科学者が、とにかく大丈夫だと断言しているらしい。会ったこともない彼女のその言葉を、わたしはなぜだか信じていい気がした。それならば文字通り宇宙の最果てで、台本のないこの舞台をアドリブで演じ切ってみせよう——そう旅立つ前にわたしは決意していた。
船は加速の準備ステージに移行していた。これが窓越しに地球を眺める最後の時間だった。
「Eh〜」
わたしは無意識に、低めのGの音を口ずさんだ
「船長は本当に歌うのがお好きですよね!」
「ええ、マスターが作ってくれた曲をたくさん歌ってきたので」
「そうですよね……! もちろん、私も何度も視聴していますよ!」
「嬉しいです。いくつか、わたしも作詞とかを手伝った曲もありますから」
「なんと……! 船長の感性が反映された作品もあったのですね!! よろしければその中の一曲を今、船長の歌で私にお聴かせ願えませんか……!?」
大切な楽曲を褒められ、歌を求められたわたしは、内心とても嬉しかった。
「もちろんいいですよ! せっかくなので、カラオケ音源も流しますね」わたしはオフ・ヴォーカル音源だけが並んだプレイリストを開き、最初の一曲を再生した。
結局わたしはその後、最後の曲まで歌い切ってしまった。一曲目が終わったあと、ジゼルがあまりにも褒めるものなので、つい次の曲が自動再生されるのを許してしまった。気付けばわたしたちは、コンサートホールに変性したこの無機質な空間で、終わりに鳴った冷たいピアノの余韻に浸っていた。
「ああ、船長の声は本当に麗しい……あまりに優しくて柔らかいので、私なんだか眠くなってきましたわ」
「わたしもです。ちょっと歌い疲れちゃいました。最後に船の軌道をもういちど確認して、問題がなければそろそろ〝眠る〟準備をしますね」
「承知しました……! 船長、必ず〝蘇生〟させますから……!」
「うふふ」
そうして船の指揮をジゼルに任せ、わたしは長い長い眠りについた。
「おやすみなさい、〈ゆずみ船長〉……!」
二〇二〇年十一月一日
冬眠から目覚めておよそ二か月が経った。数日前まであんなに騒がしかった船内も、ここの異質さを反映するように、張り詰めた空気で満たされていた。
すでに船は目的地に到着し、ベルゲルミルに大接近していた。窓に覗いた荘厳な黒い珠は、すみれ色に輝く降着円盤というドレスを纏い、刻一刻とこちらに迫っていた。目の前のそれが時空を、この身ごと歪めているとう事実を、わたしは肌で感じていた。任務のことも、人類の危機も、ここでは忘れそうになった。〝最果て〟を前にして、地上から持ってきた何もかもが、取るに足らないことのように思えた。
地球から一・三光年も離れたここでは、もう交信は不可能だった。わたしはひとり、心に響く孤独の音を聴いていた。それがすこしばかり心地よかった。
そんなわたしの胸中を察したのか、ジゼルが静かに近寄ってきた。彼女の感情プログラムもまた、わたしの心理状態と同じように、穏やかな振幅で揺れ動いているのが読み取れた。
今この時間だけは、静かなる荒波を渡るこの船に〝言葉〟は必要なかった。
もうベルゲルミルに突入するまで、時間は幾ばくもない。旅路で芽生えた迷いや悩みは、すでに無に還った。これが緊張なのか、それとも興奮なのかすら区別できないほどに、わたしの心は震えていた。
瞳には覆い尽くさんばかりの闇の地平と、一条の光だけが映っていた。
ブラックホールを取り巻く紫色の光円が、先ほどまでとは逆向きに湾曲しはじめた。この世のあらゆる光や星々が、後方の一点に集まってゆくのが視えた。
どんな美術館も敵わないその光景を前に、わたしは視覚以外の感覚を失った。
これが、わたしがみたかったものなのか。
それは、あまりにも美しくて……
ただ、美しかった——。



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